TEZUKA 秘話発掘

日本で最初に鳩時計を作った
手塚商店の三橋可免について紹介します。

prologue

知られざる鳩時計誕生ヒストリー

機械工具の総合商社として100年以上続くテヅカですが、
過去には鳩時計の生産を行っていたという意外な一面も。
鳩時計といえば、その歴史は古く、今からさかのぼること200年以上前、
ドイツの南西部に位置するシュヴァルツヴァルト地方で
作られるようになったといわれています。
定刻になると、小窓から鳥が飛び出してくる仕組みは有名ですが、
実はこの鳥、鳩ではなく「カッコウ」だということをご存知でしょうか。
驚くことに、鳩時計と呼ぶのは日本だけで、
外国ではカッコウ時計と呼ばれているのです。
では、なぜ鳩と呼ぶようになったのか。
その理由には、ある1人の女性の平和への想いが込められていました。

story 01

鳩時計を作った
とある女性の生い立ち

その女性は、日本で最初に鳩時計を作った手塚商店の三橋可免。可免さんは明治23(1890)年、京橋南八丁堀で工具商を経営していた三橋鉄三郎、わかの長女として生まれました。8歳の頃、父親を病気で亡くし、母と二人きりで父との思い出の家から引っ越します。その後、17歳で父親と同じ工具商であった手塚六郎と結婚。明治42(1909)年には手塚商店を立ち上げ、一人息子の矯さんが誕生しました。永遠に続くかと思われた家族の幸せな時間でしたが、ある日突然の不幸が訪れます。大正8(1919)年、夫の六郎が肺病で亡くなってしまうのです。

story 02

東京都世田谷区用賀の手塚測定工具工場 表玄関

可免さんを取り巻く
壮絶な人生と決死の覚悟

一人息子と数人の従業員を抱え、可免さんは孤軍奮闘しますが、その頃、会社を取り巻く環境は非常に厳しいものでした。関東大震災による本社屋全壊、昭和金融恐慌など、数々の災難に見舞われ、昭和4(1929)年には追い打ちをかけるように、大切な息子までもが病死してしまいます。可免さんは悲嘆に暮れますが、残された従業員たちをかかえ、いつまでも下を向いていられません。日本軍の依頼もあり、可免さんは手塚商店の製造部門として「手塚測定工具」という会社を設立し、軍需工場として国産のダイヤルゲージの製造を開始しました。そして、時代は世界大戦へ突入します。

story 03

平和の象徴である鳩が
幸せな時を告げるように

戦時中、工場は皇国工場として軍に接収されますが、終戦とともに可免さんのもとへ戻されました。戦地から帰国した社員や、戦争で家族を亡くした従業員のためにも、会社を軌道に乗せなければなりません。そこで平和産業として考えたのが鳩時計だったのです。昭和20(1945)年、手塚測定工具から社名変更した手塚時計で、可免さんはドイツのカッコウ時計を参考にしながら、オリジナルの製品を販売しました。旧約聖書で、鳩がオリーブの枝を咥えて洪水がおさまったことを知らせたように、戦後の日本に、平和の象徴である鳩を飛び立たせたのです。

story 04

今後も人々に受け継がれていく
可免さんの想い

「戦争で傷ついた人々に、安心できる時間、生きている喜びの時間を伝えたい」「ポッポーと鳴く鳩が、人々に平和で幸せな時間を告げられますように」そんな可免さんの願いが込められたポッポの鳩時計は、戦争で疲弊した人々の心を癒し、大ヒット商品となりました。日本人だけではなく、土産物として進駐軍に購入されたほか、輸出もされるなど、大盛況でした。昭和58(1983)年、可免さんは93歳で静かにこの世を去りました。可免さんの平和への思いは受け継がれ、ドイツのカッコウ時計は鳩時計として、今も多くの家庭で時を告げています。

epilogue

ものづくりへの情熱を鳩時計の歴史から受け継いで

当社は100年以上もの長い間、国内外のものづくりを支えてきましたが事業を取り巻く環境はいつの時代も順風満帆だった訳ではありません。
これまでの歴史を振り返ってみても分かるよう、テヅカの作り上げた鳩時計は「平和」のシンボルであると同時に、戦争や震災などいくつもの逆境を乗り越えてきた会社の「力強さ」や「ものづくりへのこだわり」を象徴するものであるともいえるでしょう。
我々はこの先もその精神を受け継ぎ、次の100年に向けて前進していきます。

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